芸術実践としての瞑想
制作のプロセスと、物質としての芸術作品を作り出す行為はどちらも瞑想的になりうる。この 「瞑想的」な性質は形や行動により具体化することができる。ヒンドゥー教や仏教の曼陀羅のよ うに、反復の原理は時に宗教的、精神的な概念を伝える為に用いられる。ヒンドゥー教や仏教の 伝統には様々な曼陀羅のパターンが存在し、どれも視覚的に差異はないが、私を魅了するのはそ の多様さと、多様性の発出である。多様性の発出とは、1つの存在が様々な形式や文脈で繰り返し 増殖し、又は出現するという概念を指す。仏教では様々な菩薩の人間的な発現が同時に存在し得 るという概念がある。菩薩の心、言葉、体、資質、活動の発散があり、曼荼羅に象徴的に表され ている。曼荼羅は宇宙や宇宙の象徴的な表現であり、そこに含まれる発出の原理は、複数の宇宙 が単一の宇宙から生成されるという考えを示唆している。私が制作する陶芸作品は1つから2つの 形をある一定の量に達するまで繰り返し鋳造するプロセスで作られているため、すべてを左右対 称の順序で1つの構成、またはパターンに配置することができる。いくつかの作品は曼陀羅の概念 に基づいており、放射状に対称に中心から放射して複製するパターンである。
反復は、装飾品など、シンメトリーを視覚的な構成の原則として多く用いる装飾芸術の文様作成 によく見られる。反復は陶芸、特に鋳込み技法の持つ重要な特性の1つだと私は考える。鋳込み は、石膏型を用いて1つのかたちをほぼ無制限の個数に増殖し、そして原型に忠実に複製できる技 法である。粘土は可塑性があるため、およそどのような形状でも、それぞれのディテールに応じ て複製を作ることができる。鋳込み技法は、オブジェクトをタイムリーかつ高効率で複製できる ため、主に食器やその他日用品を製造するために工場で大規模に使用されている。そのため、特 別で限定的な1点ものの陶芸作品を制作する技法というよりも、大量生産の単調な技術だと認識 されている。真実性と独創性についての議論は、多くの陶芸家の作品に見ることができる。鋳込 みで作られた陶芸作品は、どういうわけかこれらの価値のいずれかに欠けているというのが一般 的な信念だ。一方、手成形の陶磁器は、制作過程の痕跡を記録し、直接手で成形しているた め、芸術家独自の特徴を表現しているとされ、より本物であると見なされる可能性が高い。
陶芸制作はその他の素材に特化した芸術と同じく、触るとわかる具体的で知覚的な性質をいくつ か持っている。それゆえ手成形の陶磁器は、その製作過程の痕跡をより正確に記録し、本物と 美的価値の根源としての芸術家の表現を反映しうるという見解には個人的に同意できる。しかし 私の作品は、厳密なる手成形の技法以外で制作したオブジェクトは二次的であり芸術的な価値 が低いという考えに疑問を投げかけている。これらの半手作業で制作した鋳込みの陶芸作品に は、触覚的な価値がまだ残っていると私は考える。私の作品では、1つの特定のパターンを形成す るために用いるオブジェクトは、互いに類似していて同じに見えるかもしれない。しかしよく観 察すると、鋳造後に個々の物体を手作業で洗浄、彫刻した結果、それぞれ僅かなばらつきや違い が出る。陶芸作品の価値は、特定の技術的特性とそれらが生み出す美的価値の階層的な概念だけ に基づくことはできない。陶磁器は文化的オブジェクトであり、技法としての陶芸は、特により 大きな文化的文脈で見た場合、興味深いアイデアを伝えることができる。
ある行動を、その行動自体の意味を超越するまで何度も何度も反復するというアイデアに、私は いつも魅力を感じている。反復は必ずしも単調で不変なものではない。反復する一連の行動の中 で、それぞれの行動は、それが実行された瞬間自体が独創的である。反復は、反復されるオブ ジェクトの中では変化しないが、反復を意図する心理の中で何かを変化させる。このように、反復するオブジェクトまたは行動はすべて同じように見え何も変化はないが、オブジェクトが一連 の反復により反復される毎に、それは最初のオブジェクトと同じように新しくそして独創的であ る。反復を行うことで、私は「art labour」と呼ぶ作業に没頭し、一連の繰り返しの行動、この場 合は長期間オブジェクトを制作する行為に専念することができる。陶芸などの素材に特化した芸 術の重要性は、作品制作の過程において、技法と向き合うことによって、芸術家に世界に存在することを提供する。したがって、技法について広範囲に、そして集中的に関わった結果とし て生み出されるオブジェクトは、身体の物理的な関わりの痕跡だけでなく作り手の心理状態も記 録し得る。
芸術家たちは身体や、触覚的な身体の経験を表現するために、繰り返し粘土を用いてきた。しか し、粘土は人間の精神性に関連した概念の比喩としても使われることがある。粘土や陶芸に、私 が最初に興味を持ったもう1つの理由は、粘土がほぼどんな形にも成形できるという能力に加え て、素材が異なる物質的状態に変換される過程も含んでいるということであった。焼成工程を経 て粘土は陶に変化し、陶には材料として元から粘土に含まれていた鉱物の一部が残っているが、 焼成後は異なる物理的特性を持つ異形態の素材に変化する。陶は可塑性を失い、強度が高くなる 一方で割れやすいため、別の硬い物体にぶつかると簡単に壊れてしまう。焼成後、粘土は一時的 な物質ではなくなり、特に磁器(1300°C)などの非常に高い温度で焼成した場合、より永続的な 物質に変化する。これら全ての実践的及び技術的な教訓を通じて、身体的存在の儚さのメタ ファーとして粘土に向き合うという方法を私は思いついた。私はこれまで幾つかの手段を通じて この概念を実証しようと試みた。例えば、テラコッタで作った鐘のセットを壊したり、未焼成の 粘土のオブジェクトを水で溶かしたりする行為などの継続的なパフォーマンスである。どちらの パフォーマンスにも、過程を記録する方法としてビデオを用いた。
シンメトリー左右対称なものを見たときの秩序と美しさは、シンメトリーの持つ秩序が私達の人 体に内在しているという事実を反映している。人間は左右相称な動物である。 視覚的な構造で は、シンメトリーはやや画一的で堅苦しいと認識され、逆にアシンメトリーの構造は、より動的 で意外性のあるものに関連付けられている。しかし、私はシンメトリーの構造には堅苦しさや画 一性だけではない何かがあると思う。 装飾芸術におけるシンメトリーと繰り返しは、オブジェク トとイメージのシーケンスによって促進される。これにより視覚的な堅苦しさを超越し、瞑想的 な性質と宗教的な意味合いをもたらすことができる。